自殺をしてはいけない理由

2018年10月14日日曜日

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今回はゲームの内容とは関係ありません。

普段はゲームのブログなのでそういうのを期待して見に来てくれた方がいたらすみません。

本当に炎上目的ではありませんし、タイトルを見て興味がないようでしたら決して見ないようにして下さい。

本来は別の媒体で記事にするべき内容だと思いますが、他に多くの人の目に付くような媒体を持っていないため、ものすごく迷いましたがここで書こうと前から決めていました。

この記事にはランキングのバナーを貼っていませんのでどうかご容赦下さい。

きっかけは最近になって、今年の3月に起きた愛媛県のご当地アイドルの自殺と7月に起きた奈良県の女子高生の自殺について知ったことです。

どちらも16歳ということで10代の若い命が失われてしまいました。

ご当地アイドルの件は遺族の方が事務所を提訴したことでテレビの報道等で知り、奈良県の女子高生の件はネットのニュース等で知りました。

奈良県の女子高生の件は自殺する場面をネット配信するというショッキングな出来事もあり、偶然その動画を見ることで知りました。

その動画を探せばどこかにあるかもしれませんが見ない方がいいと思います。

これらの件を安易に一括りにして、今の10代の価値観について語るつもりもありません。

ただ、テレビ報道やネットのニュースを見ていて、自殺はしてはいけないことだと伝えている人はいるだろうか?そういうメッセージが今の10代に届いているだろうか?ということを思いました。

余計なお世話かもしれませんが、自分なりに過去に自殺をしてはいけない理由について考えたことの一部をここに書いてみようと思いました。

10代に限らずですが、10代の子を持つ親の世代などにも何か伝えられることがあればと思いました。

自分自身の経験談から書いていきたいと思います。

私が10代の頃、学校でアンケートみたいなのがあって、自殺をしたいと思ったことがあるか?という質問がありました。

あまりよく覚えていないのですが毎回◯を付けていたと思います。

文学好きだったのでたくさんの小説を読んで、そこから何かを見出そうとしていたような気もしますが、昔の小説家は自殺している人が結構いるので、そういう意味では参考にならなかったのかもしれません。

ある日、テレビを見ていたら爆笑問題の番組に落語家の立川談志さんがゲストで出演していました。

立川談志さんは7年くらい前に亡くなっているので、今の若い人は知らないかもしれません。

テレビのコメンテーターなどでよく見かける立川志らくさんの師匠です。

ちなみに志らくさんの名前の由来は談志師匠がフランスを訪れた時に、シラク大統領(当時は市長)の対応が良かったので、弟子に付けたらしいです。

その番組で立川談志さんが自殺をしてはいけない理由について話をしていました。

正確ではないかもしれませんが思い出しながら書いてみたいと思います。

落語にはものすごく貧乏だったり、犯罪者だったり、どうしようもないような人が出てきたりします。

落語にはどんな人でも生きていていいんだというメッセージが込められているのだそうです。

そのことを談志師匠は「落語とは人間の業(ごう)の肯定」と言いました。

意味はよくわからなかったけど、とてもその話に惹きつけられました。

外国で自殺をしてはいけない理由を語る時には、哲学や宗教の話を持ち出すことになるのかもしれません。

しかし日本では話芸というか伝統芸で説明することができるんだと思うと、興味深く感じました。

それから落語を聞くようになりました。

確かにめちゃくちゃ貧乏だったり、とんでもない登場人物がいたりします。

いきなり聞いても理解できないこともあると思うので、落語を解説している本なども読んでおくといいかもしれません。

それこそ立川談志さんの本で『新釈落語咄』というのがあるので、古本だと安く売っていると思います。

その番組では落語を理解していたら自殺しようとは思わないとも言っていました。

私は根が単純なのか、その話を聞いて、自殺しようとは思わなくなりました。

自殺願望があるのは落語を理解していないからだと思われるのがちょっと悔しい気もしました。

ただ、ここで落語を聞くこと伝えたいのではありません。

もちろん興味があれば聞いてみるのもいいと思いますし、10代の子を持つ親の世代でも聞いて欲しいと思います。

それよりもちょっと難しいかもしれませんが『人間の業を肯定する』とはどういうことなのか考えてみて欲しいと思います。

別に犯罪者や悪人まで肯定する必要はありません。

リア充の定義は人それぞれだと思います。

いくつかあるその人なりのリア充の条件を全て満たしたら、リア充ということにしてみましょうか。

想像にすぎませんが、今の10代はそのリア充の範囲が特に狭くなっているのではないかと思いました。

例えば最新のスマートフォンを持っていたり、友達や恋人がいて、ファッション雑誌に載っているような服を来て、SNSでたくさんの人にフォローされていたり、いいね!をたくさんもらえていることでしょうか。

それが何かのきっかけで家が貧しくなったり、ど田舎に引っ越すことになったりした時に、そんなに不幸なことではないのに、その狭いリア充の範囲から外れてしまったことで、ものすごい絶望感を感じているのではないか、という気がしたんですよね。

その絶望感を誰にも相談できなかったり、親に相談しても、今の親は昔の大人に比べれば子どもみたいなところがあると思うので、解決せずに絶望を抱え込んだままになってしまっていることがあるのかもしれません。

でも、その狭いリア充の範囲が幻想にすぎないことやそこから外れていても全然気にしなくてもいいことに気がつけばそこまで絶望感を抱えることもなくなると思います。

それがどんな人でも生きていていいんだという人間の業の肯定と共通する感覚だと思います。

生きていれば必ずいいことがあるとは限りませんが、生きていれば何かを知ることができます。

大人になっても自分が歳相応かどうか気にする人を見かけますが、そういうのも気にしない方がいいと思います。

大抵の場合、歳相応かどうか気にしたり他人に強要する人は、先程よりももっと狭い範囲の中に閉じこもってしまっていることが多いです。

他人に年齢を考えろとか歳相応に生きろと言ってくる人は大体は無責任な人です。

そういう人で成功している人をまだ見たことがありません。

もちろん自己責任になりますが、何歳でもやり直せるし何歳でも自分のしたいことに挑戦した方が悔いが残らないと思います。

この話で全員が納得するとは思っていません。

でも生きていればその人にとって納得することができる理由と巡り合うこともあるかもしれません。

私が立川談志さんの話を聞いた時のように、誰か1人でも心に響くものがあればいいなと思ってこの記事を書きました。

明日からは元のブログに戻ります。

最後まで読んでくれてありがとうございます。

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